創立から35周年+1周年を迎えた、演劇集団「激弾BKYU」の看板俳優、小林博さんと、激弾BKYU舞台作品の熱心な観察者、喜納辰洋さんが、春の昼さがりに行った熱き魂の対話は、3時間にも及びました。お互いの言葉に共鳴し合いながら、それぞれの心の中から溢れてきた、思いがけない記憶も飛び出します。

 折しも激弾BKYUは、昨年コロナ禍で中止となった35周年記念公演を、+1周年記念公演としてこの9月に上演。長かったこの一年の中で改めて「表現すること」について思い巡らすようになった小林さんと、精神障がい者の地域活動支援の場で、多様な「心の動き」と向き合う日々を送る喜納さんの、トークセッション。

 ふたりと共に「心の迷路」を辿りながら、あなたにとっての「表現すること」にも思いを巡らせてみませんか? 

(全7回の連載となります)

構成/いろプロ堤

第1回 ●第2回 ●第3回 ●第4回 ●第5回 ●第6回 ●最終回


2. 消えることのない記憶

小林:やっぱり舞台っていうのは、お客さんがグワーって集中して観ている、そのエネルギーを貰うと空気が動くのを感じる。そういう感覚っていうのは、スポーツ選手も観客が入った時にそうなのかもしれないけど。

喜納:はいはい、最近、無観客試合とかありますけど、やっぱ、テンション違いますもんね。

 

小林:そうそうそう。やっぱ、人のエネルギーっていうのは、生きるエネルギーなのかな。

だから、毎日「開く」ことをし過ぎちゃうと逆に消耗しちゃうときもあるじゃない。

 

喜納:そうでしょうね。

 

小林:だから、そういうのは、喜納君が言っていた、相談に乗るときとかにも難しいところもあるんじゃないかなと思うんだよね。

 

喜納:生き生きとしたものにしていくために、開いていないといけないのは確かだけど、ただ、兼ね合いとか折り合いは必要ですよね。

 

こういう支援の話と全然違うんですけど、僕ちょっと前まで古武道っていうのをやっていて、ああいう世界も、剣っていうのは、相手が非力でも触れちゃったら切れちゃうので、例えば、誰かが剣で、自分に切りつけてきたのが見えてからよけたんじゃ間に合わない。

例えば、「気配」というものに、僕らは「間」っていう言葉を使っていて、間をとるとか、間を取られるとかいう表現を使うんです。要は、自分がかわすっていう立場にいるときは、見てからじゃなくて、もう嫌だと思ったらよける、逃げるっていう感覚を磨いていかないといけないんですね。

でも、それを磨き過ぎると、今度は「閉じる」っていうことができない。道歩いていても全てのものが気配になっちゃって、道歩けなくなっちゃう。

やっぱり、適度に閉じていないといけないし、アンテナをマックスにしなきゃいけない場面では、「開く」をできなきゃいけないし、みたいな感じで。

 

小林:まさに。役者と一緒だね、そういう見方すると。

 

喜納:「場」とか、「間」とか、似たような言葉が出てきますよね。

 

小林:ほんとにそうだよね、共通の。

俺、役者をやり始めたばかりのときっていうのは、ほんとに、相手役とは真剣で構えているっていう姿勢で立ってないと、そこに緊張感も生まれないし、お前すぐ殺されるよって感じだった。

向き合っている中で、その姿勢がないと、それこそ届かないって。

 

喜納:逆に、こういうのも聞いてみたかったんですけど、役に入っていくっていうか、その役を生きてくときに、あれ、このセリフ、ちょっとしっくりこないな、みたいなことってないんですか?これはもしかしたら脚本家の問題なのかもしれないけど、

 

小林:ああ、でも、確認するかな、そういうときって。

脚本家にも差はあるんだけど、うちの弾長さんなんかはね、けっこう当て書きっぽい。それこそ、たぶん俺たちが動き回ってるのを、どんどん浮かばせて書いてるから、

「なんで、お前、そのセリフ、何度もつっかかるの? なんで、ずっと言ってるの、それ」

「いや、台本だからじゃない」って言うと、「変えろよ」って言うの(笑)

「いや、あなたが書いたものだからさあ」

喜納:あ、弾長が変えろよっていう(笑)

 

小林:「言えてないんだからさあ、変えろよ」っていう(笑)たぶん、気持ちは一緒だから。

「もう、お前はそっちの方へ、そうなっていってんだからいいよ」っていう。

ま、酒井さんは、やっぱり役者でもあるし、演出家でもあるから、そういうふうな考え方ができるんだと思うんだけどね。また、変わっていっちゃったら、そっちに修正して、そっちのほうが面白くなるんじゃないかって、あるだろうし。

 

ただ、脚本家の方っていうのは、ある程度、世界があるじゃない、やっぱり脚本をすごく大事にっていうか。そうすると、もう、最初のひと言からケツまで、この役の軌道っていうのは脚本家の頭の中にもう全部あるんだと。

でもやっぱり「あれ、違う」、「言いづらいな」ってなったときに聞くときはある。

俺はこの感じで言ってるんだけども、なんか、落ちないと。じゃあ、俺の入り、一発目のセリフからの入りが違うのかとか。

それが、台詞にあるから言っちゃう、言うだけみたいになってると、気持ちが積み上がらない。やっぱり、ちゃんと気持ちで返して、積み上がっていけば、最後、ボンっていけるんだけど、なんか変な違和感が一回入ると、自分の中で落ちないとか。

でも、それこそやっていくうちに、言えなかったセリフがすげー落ちるときもあるし。

 

喜納:なるほど。その時点で答えが全部出るわけじゃないんですね。

なんだろう、そういうのって、脚本家さんの意図というか、イメージの部分と、要求される部分と、もちろん、小林さんだったら小林さんという一人の人間の感性とかと、どう寄り添っていくかっていう部分もあるとは思うんだけど。

まぁ極端にズレちゃうとかっていうのは、さすがにキャスティングの問題でもあるから(笑)。

 

そういう、ちょっと、あれ?要求されてるのは何なんだろう?って思うような役をやっていったときに、自分の世界が広がるみたいなことっていうのは。

 

小林:ああ、それもある。

グレイッシュとモモのNo.0もそうなんだけど、その役をやったことで、いままで生きてきた小林博では感じられなかった感情というのが、ファッと生まれるときとかはある。

No.0に関しては、ま、ちょっとね、人間ではないんだけど、でも、まあ、生きているじゃないですか。

初めて演じたときは「人ではないじゃん」みたいな入りがあって、「葉巻がないと消えちゃうんだし」とかさ、「ちょっと人間の恐怖感と違うものをいつも持ってるのかな」、「空気かな」とか、なんかいろいろ考えてやってたんだけど、何かに置き換えたりとか。

いま思うと、初演の頃の俺の入り方は、彼の苦悩とか、そういうもののほうにすごく集中して作っていった部分があって、それはもう、No.0にならなきゃっていうのがすごく強かったと思う。モモちゃんとの距離についてもやっぱり、頭でまず考えてたと思うんだよね。

 

やっぱり、再演を重ねて演じていくごとに、変わってきたというか。

なんかもう、人だから、現代だから、SFだからとかじゃない、もう、くくりじゃない。

その人物が何に苦悩して、何を息苦しく生きてて、何を探してて、っていうものが見えたときに、モモちゃんを見て、「ああいうふうに自由になれることっていいよな、僕には自由は無いし」みたいなことを素直に感じて。

「自由が欲しいなあ」って、どういうふうにやれば、「自由が欲しい」っていう、その苦悩が出せるかということを考えていくようになったんだけど。

 

いまは、ほんとになんかねえ、モモちゃんとNo.0は、ほんとに一緒なんだなと思った。

 

喜納:一緒?

小林:社会の中にいるモモちゃんとグレイッシュの中にいるNo.0とが、一緒のポジションに感じるようになった。

だから、モモちゃんを見て、なんか、自分は、勇気を貰うとかっていうことじゃなく、一緒であったことで近づけたって。

モモちゃんの前であんなこと話せたとかっていう、何を求めてるのかわからないのだけど、なんか話しちゃって。

それはもう、彼女はこういう子だから、僕、話しやすいんだとかじゃなくて、もう、ただ、引き寄せられて話して、なんか友達っぽくなれちゃったり。

そういう感覚に、なんだろう…

普段の生活では、そんな無防備に、ついて行っちゃうみたいなことは無いし。

 

それが、こんなふうに出会って、彼女のおかげで、あんだけ怖かった消滅することさえ怖くなく、ありがとうと言って離れていく、この感情とかっていうのは、No.0をやらなければ生まれない感情。だって、まだ、自分、消えてないしさ(笑)

 

変な話、特攻隊みたいなことじゃない、言ってしまうと。

最初はやっぱそういう感覚もあったんだよ、僕がなんとかするっていう使命感みたいな。

この人たちのために、僕らが死んでしまうかもしれない、でもいいんだ、この人たちが楽しくなれば、後は任せた、みたいなこととは…またちょっと違う。

 

そうじゃないんだよね。自分の死をもってとか、そういうふうには捉えられたくないんだけど、そうじゃなくて、「これでほんとにいいんだよ」っていうこと。

たぶん、この世界に異物なものとして生まれちゃっただけなんじゃないか、グレイッシュたちというのは。彼らを生んだのは人間たちなのかもしれないんだけど。

 

だから、戻るだけというか、戻すために、もしかしたら人間にそれを伝えるために、僕らグレイッシュは生れたのかもしれないというか。

 

喜納:さっき、小林さんが「モモちゃん」って言った瞬間に、いま、あのシーンが一瞬、蘇った感じがあったんですけど。

で、いま話聞いてると、舞台作品としてっていうより、モモちゃんがいるあの世界、その時間を生きて行く中で、ほんとに、そうなっていくんだみたいな感覚で。

 

グレイッシュが消滅っていう方法を選ぶというか、まあ、架空のものだし、よくわからない存在なんだけど、あそこで、すごい葛藤を感じているNo.0がいて、でも、その選んだ道っていうのが、その彼をいちばん、生かすというか、生きていたというか。

存在は消えていくんだけど、でも、それで「生きる」という感じを得たのかなあという気がします。

 

小林:そうそうそう。だから、マイスターホラの言葉の中でね、「限りある命だからこそ」という、そのことだよね。

 

人間たちは、生物はさ、生まれて消えていくわけじゃない、絶対。それがちょっと延びたり、縮んだり、それを繰り返してる。

ミヒャエル・エンデが書いた「モモ(「グレイッシュとモモ」原案)って、時間泥棒が時間を盗っていくというけど、人間は、生きた時間の中で、自分の思い出だとか、いろんな人と出会ったりとかっていうものをどんだけ残せるかっていうことを失う話だよね。

ま、いわゆる、コンクリート社会になっていく、どんどんどんどん、生活が楽にはなるけれども、便利になればなったで、そのことによって、生きる時間、1日の時間は全部同じなのにどんどんどんどん加速して、その時間が使われていく。いま、だいたい80年生きるとしたところで、その80年間、全速力で走らされるだけになっちゃうっていうかさ。

 

喜納:そうですね。

 

小林:だから、その生き方ということ。

ナンバーゼロは消えることをやっぱり怖がっていたし、消えることが嫌だってことしかなかったところが、一生その人の頭の中で生き残れる記憶だとか、それって、ある意味、無限っていうか、宇宙につながっちゃうっていうか、そこに、こう、気づかせてもらえるというのかな。

 

喜納:例えば、どうやったら稼げるかとか、儲かるかとか、どうやったら社会的な評価を得られるかみたいな、外側の価値観に適応しようとすると、やっぱり、自分の内側のほうは、ものすごく、遠ざかっていく。逆に言うと、経済的な意味で、生きていく術には長けていても、何かこう、自分が生きるっていうことは、見つからない人もたぶんいっぱいいるし。

それこそ、生きるっていうことでいえば、黒澤明監督の「生きる」は、主人公は死ぬ間際に、自分が、ほんとに生きる、生き方を見つけちゃうみたいな話じゃないですか。グレイッシュも、あれで消えていくっていうかたちで、ほんとに生きたんだなっていうね。

 

小林:そうそう、広がった。

生まれた理由はなんだとかって、さっきも言ったけど、ほんとはグレイッシュたちは消えていく、人の記憶から。だけどNo.0は、「モモちゃんなら、憶えていてくれるもんね」「寂しくないよ」っていう、あのやり取り。

消えるけれど、もっと素敵な、なんていうのかな、拠り所というか何かを、「ああ、これだったんだよ」「これを僕は欲しかったんだろう」というものを得られて、「また会おうね」って言えるっていう。

素敵なセリフを吐きますね(笑)。

 

ほんとに、グレイッシュにどんどん時間を渡しているから、たぶん、その残る記憶をつくることができない世の中になるわけじゃない?人と人が出会ったこととか。

じゃあ、お疲れさまーって帰って、明日何時に起きて、会社行って仕事して、よしよしよし、お金が入った、良かった、これで支払いもできた、で、家も買おうか、ああ…俺もうガンだ、死ぬ!ってなったときに、子どもたちとのお父さんの記憶がどのくらいあるんだろうかとか、思い出はどのくらいできたんだろうかとか、そういうものを…。

 

喜納:ちょうど、それをいまね、考えてたところなんですけど…昨日、子どもと散歩して、近くにすごく良い公園があって、雨上がり、すごい気持ち良かったんですよ。この子との、この小一時間の散歩を一生忘れられないなと思って、なんとなく。

僕、まさに家買って引っ越ししたばかりなんですよ。いろんな、ローンの審査、金の支払い、ネットの引っ越し、手続き手続き、で、引っ越し終わって、家を片付ける。片付けながら、今日はご飯どうやって作ろうと、そういった中で、ひと段落したからなんだけど、ああ雨上がったし、散歩行こうかって子ども連れていって。

この時間がほんと財産で、僕の一生に残って刻まれていく、子どもと歩いていた風景とか。

 

で、またここの仕事の話と関連することなんだけど、あえて、二つ。

自分が何を感じて、何を体験して、何を自分の記憶とか、人の記憶に落としてってことと、世の中の流れにうまく乗って、うまく生きていくっていうことがあって、どっちも、こっちはどうでもいいってことじゃない。さっきの「閉じる」「開く」と、すごく似たようなことだと思うんだけど。

 

ここ(地域活動支援センター「喫茶ほっと」)に来ている人たちっていうのは、例えば自分の兄弟とか同級生が当たり前にできていること、働いたりとか、結婚したり、子どもができたりとかいう、多くの人にとってそんなに難しくない、当たり前とか普通っていうことが、なんかもう、それ自体なかなかしんどい、難しいってなっているから、ものすごく「普通」っていうものに憧れを持つところがあるんですよ。

でも違う見方すると、「普通って何?」みたいなことがあって。

で、どうやったら私は普通っていう生き方ができるのかしら、みたいなことと、どうやったら私はこの役を演じられるのかしら、みたいなことがすごく似ているなと思ったんです。

 

だから、僕、ここでは、そうじゃなくて、もちろん、その、得られなかった悲しみとか辛さっていうのは非常によくわかるんだけど、いま自分ができることとか、ほんというとやりたいことって何?っていうところを掘り起こしていかないと。

いわゆる福祉っていうものは、なんか、障がいで失ったものを補うよとか、お金がない人を生活保護で支えるよ、みたいなところに力点が置かれがちなんだけど、そういうことじゃなくて、いま、あなたが、本当にしてみたい生き方は何?っていうこと。

こっちをやんなきゃいけないみたいに思うところがあって、

 

極端な話ね、嫌なことやんなくたっていいよぐらいのことが、実は支援にとって非常に重要なんだけど、どこまで経っても、その「普通」っていう呪縛がある。たぶんこれは国民的な呪縛であって、みんなが普通にとか、普通以上にとか、どうやったらうまく生きられるとか、どうやったらいい会社に入れるみたいなことに、ものすごく縛られている。

いや、あなたは、いま、今日なにしたいの?とか、そういうこととすごくかけ離れたところで生きている。

で、それを、時々、まさに開いて、あれ、俺、何したかったんだっけ?何を大事にしたかった?みたいのをやんないと、気がついたら、肩書きと貯金通帳だけ残って、死んでいくみたいなことになりかねないのかなっていう怖さがある。

 

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小林博●こばやしひろし プロフィール

神奈川県出身。激弾BKYUの看板俳優。

激弾BKYUが2000年に上演した「HAPPY」での客演を経て、2002年「そろそろ月に帰ろうか」で正式メンバーに。多くの作品で主演を務め熱いエネルギーとペーソスあふれる演技で観客を物語へ引きずりこむ。

そんな彼に弾長から与えられたキャッチフレーズは「愛すべき情熱の空回り」。

ちなみに、40歳からスタートした毎日更新されるブログ「から回ってポン!」は今年で10年目である。

現在は舞台を中心にしながら、映画・TV・CFなど、映像の仕事でも活躍中。

激弾BKYUオフィシャルサイト

小林博ブログ「から回ってポン!」

所属オフィスJFCTオフィシャルサイト

 

喜納辰洋●きなたつひろ プロフィール

精神障がい者地域活動支援センター「喫茶ほっと」施設長、NPO法人たかつdeほっと副理事長・事務局長。

沖縄県出身。明治学院大学文学部心理学科をギリギリの成績で卒業後、東京都内の精神障害者施設に勤務するも、職場の方針や人間関係に悩み鬱病・不安神経症を発症し退職。療養期間を経て、2000年より現在の「喫茶ほっと」に勤務し、精神障がい者の相談業務、地域生活支援、心理教育、当事者研究に携わる。

2010年鬱病を再発するも、約2ヶ月の療養後、現職に復帰。

自身の体験も踏まえた当事者支援は、通所するメンバーからも信頼と温かい目で見守られ、支援者と利用者の敷居が見えない「喫茶ほっと」の独特の雰囲気を作っている。

通所メンバーと共に続ける「当事者研究」は、他施設や医療関係者に広がり、現在は講師や出張研究会、製薬会社や病院等との共催研修会も行なっている。

二児の父、趣味は古武道・古武術。

地域活動支援センター「喫茶ほっと」オフィシャルサイト

 

*「喫茶ほっと」は、いろえんぴつプロジェクトのクリエイティブパートナーとして、いろえんぴつプロジェクトのさまざまな企画にご協力いただいています

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イラスト/たけだいくみ

協力と写真提供/激弾BKYU (撮影/巣山サトル)

     地域活動支援センター「喫茶ほっと」(撮影/大久保雄介)